人文学と教育

同性愛者間の格差と教育の在り方

1.問題提起
人の性別、性的指向は男女、異性同性と言った単純に分けられ得るものではない。ここでは、その数ある性別、性的指向の中でも、レズビアン・ゲイと呼ばれる「同性愛者」について取り上げる。
レズビアン・ゲイの存在について知らないという人は現代では少ないだろう。ここでは、その両者への他者の認識について問題提起する。
「オネエタレント」というジャンルの芸能人を、メディアで目にする機会は少なくない。彼らはその「オネエ」というキャラクターで芸能界で活動している。そのようなオネエタレントの中でも、性別・性指向は様々であろう。  
しかし、レズビアンのタレントは殆どいないと言っても過言ではないだろう。
それは何故なのか。レズビアンが受け入れられていないのか、ゲイへのイメージが軽くなっているのか、それとも両方なのか。ここで問題提起する。

2.レズビアンのタブー性
そもそも女性へのタブー性はレズビアンに限った話ではないと推測した。
例えば、「下ネタ」という言葉がある。現在では広く知られた言葉で、笑いを誘う(必ずしも笑いを伴う訳ではない)排泄・性的な話題のことを指す。
少なくとも日本では、女性が性的な話をオープンにすることが受け入れられているとは言えないだろう。「恥じらいがない」「下品だ」と非難されてしまうこともあるだろう。
もちろん、女性が性的な話題に触れることが全てタブーというわけではない。例えば、セクシー女優と呼ばれる職業の女性達も、極最近ではタレントのようにメディアに出演している。
しかし、かと言って女性が性にオープンになることが広く受け入れられているかと言うとそうではない。前述したような非難を受けることが多い。
このように女性の性的な話がタブー視されてる中、レズビアンの存在が知られてると言っても、軽く話題にできるようなものではそもそもない。この問題は、教育現場での指導も関係してくるだろう。

3.ゲイの軽視化
1の問題提起でも記述したが、「オネエタレント」という存在をメディアで目にする機会は多い。「オネエタレント」自体に是非はないと思うが、それを受け取る視聴者のイメージについて考えたい。
前提として、オネエ=ゲイではない。「オネエ」というのは、体が男性(性転換手術をしている、していないに関わらない)で、女性のような仕草・口調で振る舞う人のことである。
「オネエ」でも、同性・異性・両性愛者、またはそれのどれにも属さない、様々な性別・性指向がある。芸能人に限っても、様々だろう。
しかし、オネエ=ゲイではないという認識は根付いてるだろうか。オネエタレントのイメージがそのままゲイに結びついている人はいないだろうか。
オネエタレントはあくまで職業なので、その軽いキャラに是非を付けられるものではない。しかし、メディアの取り上げ方を見直す必要はあると考える。メディアでのイメージを一般人のゲイに擦り付けかねないことが問題ではないかと考えた。
性指向は笑われたり、軽んじるものではない。悪意はなくとも、メディアによって植え付けられた誤解や偏ったイメージが、当事者を傷つけることはある。
このような現象では、オネエタレントなどによって、ゲイが「受け入れられている」わけではない。ネタにされる、軽んじる、これらは全くの真逆で、これもまた差別である。

4.ジェンダー教育の在り方
前述したような問題が、ゲイ・レズビアンそれぞれにあると考えた。また、その問題の改善策のひとつに、学校での指導も有効ではないかと提案する。
レズビアンのタブー性の問題においては、そもそもの女性の性のタブー性を性教育から見直し指導することが可能ではないか。女性の性は恥ずかしいもの、ましてやいけないこと・タブーではないと教えることである。
女性が大っぴらに性を語ることが良いというわけではない。しかし抑圧されすぎることは、レズビアンのタブー性だけでなく、様々な弊害がある。例えば、女性が何らかの性犯罪・性暴力を受けた時、事件に巻き込まれた際、被害を受けたことを言い出せず泣き寝入りしてしまう、というのは社会的にも問題となっている(ただしこの問題は女性も男性も関係ないものではある)。
セカンドレイプという言葉があるが、女性の抑圧された性、また、それに対する他者の理不尽な好奇心が一因である。女性の性へのタブー性を取り除くことは、この社会問題への解決の糸口に近いと考えた。
ゲイの軽視についての問題も、教育現場での指導が重要になる。ジェンダー教育において、性指向は笑っていいものではない、異性愛者と同じように尊重されるべきものである、と指導することだ。
テレビの影響を受けやすい児童期などでは、そもそも理解のし難い話であるし、難しいことかもしれない。しかし、少しでも改善に繋がるはずと考える。
また、テレビを見るのは児童だけではない。指導する側ももしかしたら偏ったイメージを抱いてしまっているかもしれない。その払拭のためにも重要だと考える。

原さん

瀬戸内寂聴著『女人源氏物語』との比較

・『女人源氏物語』とは
1999年に刊行された、瀬戸内寂聴の著作。この作品では、語り手は源氏物語に登場する女性達となっている。
源氏物語の本文のストーリーに沿いつつ、女性達の言葉で創作した作品である。
今回は、上巻の「桐壺」「光君」について取り上げる。

「桐壺」
語り手は桐壺の更衣自身である。
桐壺は今まさに死の淵にいる場面で、今までの帝との思い出、数々の苦難、若君への愛情と懸念を、語っている。
本文でのエピソードも桐壺によって語られる、また、桐壺の回想として帝のセリフなども綴られている。例えば、帝の偏った寵愛ぶりを中国の玄宗皇帝に例えたエピソードは、帝のセリフとして語られている。
本文での桐壺の更衣の人物像そ のままに、話す口調は物腰柔らかで、優しい人物を思い起こさせる。
基本的には本文に忠実だが、「桐壺」の終盤でこのような文がある。
『生きているうち、どうしてもくちにできなかったお願いを最後にひとつだけ残します。若宮を、なにとぞ、東宮にお立てくださいますように。』(p30)
桐壺はこれは亡き父の切ない願望として語るが、本文ではもちろん彼女のこのような語りはない。
源氏物語では、およそ795首の歌が登場する。その最初の歌は、死期を悟った桐壺の辞世の句だった。
『かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり』(p16)
主上との別れを悟りながら、でも、私は主上様のお側で生きたいのです、と歌った。 
源氏物語の最初の歌でありながら、桐壺の更衣の最期の歌、主上との恋に生き、恋に死んだ女性の歌である。そんな女性の最期の願いが、若宮を東宮に立てることなのかどうか、解釈のわかれるところである。
「桐壺」はここで終わり、桐壺の更衣の死後、帝や若君のその後は続く「光君」で語られる。

「光君」
語り手は靫負の命婦である。
靫負の命婦とは、父・兄または夫が靫負司(衛門府)の官人である女官である。この靫負の命婦は、帝の極近くで世話をする役目で、帝自身とも懇意な仲であったと解釈される。
桐壺の更衣を失った帝の落胆ぶりはすさまじく、その様子は「『亡くなった後まで人の心を苛立たせるご寵愛ぶりだこと』など、弘徽殿女御さまなどは、相変わらず憎々しくおっしゃっているとか。」(p32)と記されている。
そんな中、帝は桐壺の更衣の里にいる若宮を恋しく思っているようだ、と語り手は言う。
語り手の靫負の命婦は、源氏物語本文で、実際に桐壺の更衣の里に遣わされた命婦である。女人源氏物語でも、本文に忠実に、桐壺の更衣の母君を訪問した際のことが記されている。
荒れ果てた邸、悲しみにくれる母君、それに合わせて、帝の悲しみにくれる様子も語られている。この命婦は帝とは懇意な仲であるが、純粋に帝を心配する気持ち、母君を労る優しい人柄が伝わるような語りである。
前章の「桐壺」でもしきりに『長恨歌』について語る場面があった。「光君」でもその場面は多く、また、今章では中国の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードが特に多い。
『たづねゆく まぼろしもがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく』(p37)
帝の読んだ歌である。桐壺の更衣の魂を捜しにいく幻術師はいないものだろうか。人伝てにでも、その魂の在処を知ることができるだろうに。という意味だ。
この歌は、『長恨歌』の後半で、幻術師が亡き楊貴妃の魂と出会い、かんざしを玄宗皇帝に持ち帰ったエピソードを踏まえたものだ。母君から桐壺の更衣のかんざしを受け取った帝の哀愁が感じられる。
その後の語りでも、帝の落胆ぶりはしきりに玄宗皇帝に例えられた。夜は眠れず、食事もまともに取れず、政にも興味をなくしてしまった帝の様子だ。
「光君」では、桐壺の更衣の死から、母君との対話、母君の死、藤壺の更衣との出会いと入内までが、靫負の命婦の言葉で語られている。

・『女人源氏物語』と『源氏物語』の比較
『女人源氏物語』はいわゆる二次創作のようなものであるが、著者の瀬戸内寂聴源氏物語の深い読み込みが感じられる作品だ。
二作品を比較した際に最も目立つ違いは、登場人物の人柄である。『女人源氏物語』では、それが感じられやすい。
もちろん、源氏物語でも、桐壺の更衣の淑やかさや、靫負の命婦の優しさを歌などから感じることが出来る。『女人源氏物語』では、語り手が登場人物となっているため、より世界観を密接に感じ、感情移入がしやすいのである。非常に読みやすく、共感もしやすいので、興味を持って読むことが出来ると感じた。
しかし、源氏物語は恋愛小説であると同時に、当時の政治的な要素も含まれる。『女人源氏物語』は源氏物語の恋愛要素を追求した故の甘美さ、繊細さが感じ取られた。政治的な読みどころはほとんどないと言える。
読みやすさ、入りやすさだけならば『女人源氏物語』は良い文献になると感じたが、恋愛小説以上の解釈を求めるなら、『女人源氏物語』だけでは不足に思われた。